顔と型について
13th archiforum in OSAKA 2010-2011 [誰がために建築は建つか]
吉村靖孝「ダブルテンポから中川政七商店まで」レビュー
去る2010年8月28日、第5回のアーキフォーラムが行われた。今回の講師は建築家の吉村靖孝氏。ゲストコメンテーターとして第13代中川政七商店代表取締役の中川淳氏が招かれた。2001年以降の作品を網羅的にプレゼンテーションすると同時に、新作である中川政七商店新社屋を巡って議論を深化させる。レクチャー全体を通して、氏の建築家としてのスタンスがじわじわとあぶりだされる様な刺激的なレクチャーとなった。
1.都市・社会へのまなざし
不思議なレクチャーの始まりであった。オランダのMVRDVから日本に帰国し独立した経緯を語りつつ、よく似た2枚の風景が画面に映し出される。1枚目には山並みが無く、2枚目には山並みがある。前者はリアルなオランダの風景、後者は長崎ハウステンボスの風景であり、吉村氏はこの後者の写真が日本のカオティックな状況を端的に示していると分析した。続いてそのカオティックな日本の大都市、東京の生成ルールを捉えるべく研究した「超合法図鑑」、羽田空港を300m高さを上げることによって、すり鉢状の高さ制限を操作しようとするプロジェクトと、アンビルドやリサーチのプレゼンテーションが、落ち着いた口調で続く。しかしこの時点ではただ漠然と都市や社会に対しての興味が氏の建築に結びついているのだろうという想像に留まった。2.わかりやすい説明とわかりにくい建築
その後2001年以降の作品がわかりやすくとてもロジカルにプレゼンテーションされていく。中でも、海運コンテナの規格寸法を借用した「ベイサイドマリーナホテル横浜」、家型の屋根が六棟連なった形状をした「中川政七商店新社屋」、屏風状のファサードを持つ郊外のドラッグストア「ダブルテンポ」、住宅の貸し方を2年から1週間に短縮することで新たな生活の形式を提示しようとする「NOWHEREシリーズ」は、その特徴が顕著であった。先程までのアンビルドやリサーチとはやや毛色が異なり、客観的で分析的、且つ大から小へと線形的にわかりやすく「説明」されるプレゼンテーションは、イメージと言葉が一体となって聞く者の脳を刺激する。理解していたつもりの作品が、クライアントの個別的要求や現代の社会的要求、構造や設備の技術や敷地の固有性、さらには法規までを重層的に内包した一つの形として結実していることに気づかされる。説明を受ければ受けるほど作品に新たな意味が発見されていく。(極めて良い意味で)わかりにくい建築にわかりやすい説明が付与され、徐々にその作品が持つ射程と本質があぶりだされていく感覚は、聞くものにとってこの上なく心地よい。宙に浮く言葉が引き金となり、聞く者の「気づき」や「発見」を促すからだ。
氏の建築の内側には一言で言い表せない複雑な回路が存在している。それはクールで客観的で広範囲に渡る回路だ。だから氏の「説明」は建築自体をあぶり出すと同時に社会を映し出す「鏡」のようなもので、私たちは自らが存在する社会について無意識的に考えさせられる。つまりパラダイムが強制的にシフトする感覚に見舞われるのだ。
その意味で「建物が社会に対してどのような効果があるかに興味がある」との言葉で前半のレクチャーがまとめられたのは象徴的であった。この言葉の中で重要なのは、実体があるのは「建築」だけで「社会」も「効果」も実体がないということだ。それゆえこの言葉は、実体なき社会の中で建築に何が可能かを考えているとも捉えられるが、むしろ見えない「型」をあぶりだすことにある種の喜びを覚えているようにも捉えられる。実体なき社会が吉村氏を刺激している。3.施主=デザイナー
後半は中川淳氏をゲストコメンテーターとして交えて、立体的な議論がなされた。
中川氏は1974年生まれ、中川政七商店の第十三代代表取締役社長で、2006年当時奈良の中小企業であった「中川政七商店」のフラッグシップショップを表参道ヒルズに出店したことで、その経営手腕を高く評価されている。著書に「奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり。(日経BP)」がある。本の中では「もの作りの仕組みをデザインする」「組織をデザインする」といったコンテンツで、自身のブランドやデザインに対する考え方が明確に示されている。「経営とはデザインである」というコンテンツが象徴的なように、自分自身が新社屋の施主であると同時に、デザイナーとして吉村氏と向き合っていた事がよくわかる。今回のアーキフォーラムでは 中川政七商店新社屋のプロジェクトに携わった企業のデザイナー(中川淳氏)、建築のデザイナー(吉村靖孝氏)、構造のデザイナー(満田衛資氏)が同じ壇上に上がり、議論が進められた。
議論の中で、中川政七商店のアートディレクションに携わった水野学氏の話題が一つのトピックとなった。水野氏は新社屋の設計者として吉村氏を紹介した人物である。一般的に、施主と設計者の間にもう一つの「顔」が存在すると、顔が二つある状況になるので、設計者の労力は倍増するとされているが、そのような状況を「条件と捉えて設計したい」という吉村氏の言葉は前半のプレゼンテーションを慎重に補足していた。言うまでもなく、吉村氏の建築は決して社会が自動的にあぶり出したものではない。「型」から商品を生み出すのは機械によるが、「型」を設計するのは(どの世界でも)個別の状況と物語を伴った人間である。その意味でアートディレクターというもう一つの「顔」の存在は、設計者の状況や物語をより濃密なものとし、施主―設計者という線的な関係性を面的で有機的な関係性に変型できるような可能性が感じられた。4.のっぺらぼうとにらめっこ
中川氏もまた、極めてロジカルに自身のスタンスを語った。「見えないところまでどれだけ正しくやれるか」との言葉は、企業ブランディングだけでなく建築やプロダクトデザインにも置き換えられるような、とても互換性のある言葉で印象深い。中川政七商店新社屋のプロジェクトでは、このデザイナーとしての中川氏を含む複数のクリエイティブが重層し、それらの総体として建築が建ち現れている点で画期的であると感じた。「コンセプト」と「複数性」という反語的な二つの言葉が違和感無く一つの建築に内包されている。つまり企業ブランディングから建築デザインまでいくつもの切り口を持った深みのある総体として建ち現れている。それは「顔」が見えるデザイナーが、飛び交う要求を条件として捉え、上下の関係を排した有機的な関係の中で建築を造ることを、無意識的に行っていたから実現したのだろう。
一方、私は議論の中で吉村氏のスタンスを「商業建築にマッチしやすい」とコメントした。なぜなら、商業建築と個人住宅が決定的に異なる点が、施主、消費者、職員・・・といった複数の「顔」から発せられる要求を同時に満たす必要がある事だとすると、人間自体を敷地と同様にコンテクストと捉え、見えない「型」を設計しようとするスタンスは、商業建築を取り巻く消費社会にマッチすると思ったからだ。消費社会には有象無象の「顔」と「型」が存在する。吉村氏の建築が見据える射程は驚くほど広い。
次に吉村氏に期待してしまうのは、おびただしい数の「顔」が同時に存在するような状況、言うなれば「のっぺらぼうとにらめっこ」しているような状態でどのように作るかである。人間をコンテクストとして捉えることが極めて困難な、まさに消費社会そのもののような状況で生まれる吉村氏の建築に、期待は膨らむ。(山口陽登)